大先輩を亡くすということ
2011年 07月 09日
すごく元気な人で、頭の回転が速くてびっくりするほど記憶力が衰えず、
年を取っても昔と同じように話し、同じように大声で笑う人でした。
数日前まで元気だったそうです。90歳でした。
子供のころ、祖母の家に遊びにいくと、2階から隣りの家の庭が見えて、
そこで庭仕事をしている祖母の兄の姿をよく見かけました。
私がのぞきこんでいるのを見つけると、
「お~い!」と言って手を振るので、
「お~いのおじちゃま」と呼んでいました。
5歳でドイツに引っ越す前の、遠い記憶です。
戦前の政治家、斎藤隆夫の三男で、秘書をやっていました。
数年前、NHKの「そのとき歴史が動いた」第135回
「我が言は、万人の声 ~太平洋戦争前夜、日本を揺るがした国会演説~」で
斎藤隆夫が取り上げられたときに、インタビューで登場しています。
でも自分は政治家の道へは進んでいません。
政治家というものは、家業のように継ぐものではない、という
考え方だったみたいです。
今は2世、3世議員がたくさんいますけれど。
名前を検索すると、出てくるのが「回天特攻隊」のウェブサイトです。
はじめから「生還の望みはない」ことがわかっている特攻隊。
これに志願をする気持ちというのが、今の時代には想像がつきませんが、
その若者たちの中に、彼も入っていました。
ただ、出発する順番がまわってくる前に、終戦を迎えたのです。
あれはべつに強制されたわけでもだまされたわけでもない、
みんな自主的に志願したんだよ、世の中がそういう状況だったんだ、
と最後に会ったとき、確かそんな話をしていました。
そういえば相方のラグビーの大先輩も、何年か前に90代で亡くなりました。
一度お会いしたとき、とてもそんな年齢には見えず、
自分の息子を「弟です」と紹介し、
「最近はまわりが年寄りじみてきて話をしてもつまらない」と言って笑う、
太もも周りが私のウエストくらいあるおじいさんでした。
やはり戦争に行って、戻ってきた方です。
昔のことを語れる人が、少しずつ減っていってしまう。
時間の経過とともにそれは仕方のないことなんですが、
日々の忙しさに追われて、気づけば自分がおばあさんになってしまった、
となる前に、人生の先輩たちと話をする機会をもっておきたいな、と
「お~いのおじちゃま」がいなくなってしまったことで、
ちょっと考えさせられました。
読んでくださってありがとうございます。
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